創業当初から変わらぬ想い
東京チェンソーズは2006年7月1日、東京都檜原村で地元の森林組合から独立する形で創業しました。
大半が戦後の拡大造林期に植えられた檜原村の森林は、当時で樹齢50年。まさにこれからが使いどきの時代を迎えていました…
そうした状況を背景に、補助金のみに頼らない、木を売って成り立つ、真っ当な林業がしたい、そんな想いを描いての独立でした。
林業は気持ちの良い仕事
その少し前、4人が森林組合にいた2000年代初め、
森林組合での仕事は東京都発注の森林整備事業・間伐が中心でした。
現場は間伐などの手入れが遅れ、
細い木々が混み合い、暗く、湿った感じのする山がほとんど。
林道にクルマを置いてから、
山道を1時間〜2時間歩いてやっと着く、
言葉は悪いですが、見捨てられたような森林ーーそんな場所での仕事も多くありました。
しかし、その山で間伐すると、風景が一転します。
暗かった林内に光が注ぎ、
風が吹き抜け、
とても気持ちの良い森に変わるのです。
半日の作業を終え明るくなった山を見て食べるお昼の弁当、
その後の昼寝、
そして1日の仕事を終える夕方には、
ちょうど1日分の
自分の仕事の成果である心地良い山を見ながら、山を降りることとなるのです。
サイコーに気持ちの良い仕事!
自分が気持ち良く感じる山の手入れが、
ひいては環境をよくすることにもつながってる…
そんな意味での充足感もあり、林業は長く続けたい仕事でした。
しかし長く続けられる環境ではなかった…
しかし、残念ながら待遇面は必ずしも良いものではありませんでした。
給料は日給月給。
雨が降れば仕事が休みとなる上、正月休みのある1月は、悪天候も重なると出勤が月の半分ということも。
社会保険やボーナスもなかったので、子どもがいた場合は特に厳しかったと思います。
結婚を前に林業を辞めるという決断をした仲間もいました。
せっかく気持ちの良い仕事なのに、これでは長く続けられません。
まずは実際に山で働く自分たちの待遇を上げることが先決と、
月給制への移行や社会保険の加入など、待遇面の改善を上層部と交渉しました。
上層部も事情は分かってくれましたが、森林組合では働く人が多く、
自分達だけ待遇を変えるということにはなかなかならず…
ちょうどその頃、森林組合では現場作業班を外注化するという動きが進んでいました。その流れの中で、目の前に“独立”という言葉が出現します。
東京チェンソーズ創業
当面は森林組合の下請けを頑張ることで、収入は上げることができそうです。
それは自分たちの暮らしを支える基盤となり、次にチャレンジする際の足がかりとなります。
その頃、林業は衰退産業と呼ばれていました。
木材価格はピークだった1980年の3分の1に減少。林業従事者も同様に激減していました。
そのせいか、当時、林業を取り巻く世界には、「木材価格の低迷のせいで、林業は儲からない、頑張ってもしょうがない…」という、暗い気分が漂っていました。
とはいえ、国土のおよそ7割を占める森林を放置するわけにはいかないと、国では状況に対抗すべく森林整備に補助金を導入します。
補助金があることで、林業はどうにか成り立つものとなりました。
しかし、林業は本来、育てた木を木材として使ってもらう産業です。
補助金に頼っていては、新しいことにチャレンジできません。
私たちは補助金にのみ頼ることなく、
普通に木を売って成り立つ林業をやってみたいと考えました。
補助金のレールを外れることで、
工夫してきちんとした収入源を確保し、多様な林業を実践することができるようになるのではないか…
そんな“妄想”を抱きつつ、森林組合を退職、独立を決めます。
戦後植林された檜原村の山が、当時(2006年)、樹齢50年を超え、用材として使いどきを迎えていたことを追い風に感じつつ。
企業理念誕生〜地球の幸せのために
どんな会社にして行くのか、どんな未来を目指すのか。
仕事終わりや週末に集まり、あるいは代表者となる青木の家で合宿したりで、こんなことを考えました。
先人が将来を思い苦労して植えた苗木が50年の時を経て、
今、活用できる時期を迎えている。
50年の間に林業を離れてしまった人も多いが、
何かの巡り合わせでこの時代に山にいる自分たちが、
先人の思いを汲んで、しっかり活用することが大事であり、それが仕事なんだと。
それを実現するためには
木をもっと身近に感じてもらえるよう、
山のことを伝えて行くことが大切。
木造の家や家具を増やすことで、
木の温もりある街を実現する。
山の手入れをすることで、
きれいな水を送り出し、
住みやすい環境に貢献する。
これは地球に住む、
多くに人びとのためになってるのではないか…
地元に先祖代々育ててきた森があるのに、
地元の人が林業は儲からない、危ないからやらないほうがいいというのはおかしい。
林業を子どもが憧れるようなものにしたい。
子どもにはいいイメージを持ってもらう。
美しい山を持続していくためには、未来の担い手が必要。
子どもたちに森を身近に感じてもらう環境づくりが必要。
この想いをまとめ、企業理念とします。
自分たちの足元、東京の森を手入れすることで美しい森を育て、
その森の恵みを届けることで多くの人の幸せに貢献する。
そういう意味を込めました。
“東京の木の下で、
地球の幸せのために、
山のいまを伝え、
美しい森林を育み、活かし、届けます。“
同時に“東京チェンソーズ”という社名も決めました。
東京で林業をやってることが分かりやすいシンプルな名前としたかったので「東京チェンソーズ」。
林業の会社は〇〇林業という名前が多かったのですが、
せっかく独立するのだから、気持ちのこもったものにしたいという思いがありました。
林業は世代間をリレーのように繋いでいくもの。
自分が植えた木を伐採して使うのは、子どもや孫の世代。
だから、子どもたちがかっこいいと思って、憧れてくれるものなればいいという気持ちもあります。
”顔の見える林業”がしたい
また、独立することで、それまで密かに思い描いていた、“顔の見える林業”ができるようにもなりました。
造園屋さんが仕事する時、
どんな庭にしたいのか施主さんと話して仕事にかかるはず。
それと同様に山の仕事も所有者さんと顔を合わせ、
どんな山にしたいのかを話して仕事をしたいと思っていました。
開業まもない頃、
仕事を依頼されたある所有者さんの山では、
作業の時いつも、
どんな想いで苗木を植えたのか、
どんな想いで山を育ててきたのか、
将来どんな山にしたいのか、お話を伺うことができました。
そのことでお互い良い関係性を築くことができ、より良い仕事ができたと思っています。
こうして自分たちの体制を整え、理想と掲げる仕事を続けることで、
東京チェンソーズが長く続いていけば、
それは東京の山林所有者や他の林業会社にもいい影響を与えることになるのではないでしょうか。
その波は東京から日本という国へ広がり、
さらには世界へ、
そして地球の幸せへとつながって行くんだと信じています。